「事件は会議室で起きているのではなく、現場で起きている」(踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!,2003,脚本:君塚良一)というような感じの構図で、各当事者の「想い」が、地域をめぐると常に噴出している。ただ目に見えない戦いのようなところがある。「現場」に対するものが「中央」なのか「行政」なのか「大都市」みたいなものなのか。我々は日々、誰に対して「ちゃんとわかってない」ので「ちゃんと現場を知ってほしい」と思っているんだろうか。一方で我々は、一体現場のなにを知っているというのか。この2項対立をどうにかアップデートできないものか、と考える。
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第71回カンヌ国際映画祭にて『万引き家族』が最高賞であるバロンドールを獲得した際に、映画監督である是枝裕和氏が、おびただしい数のインタビューを受け、それが多様に形を変えながら発信されていく中で、ブログに下記のような文言を残した。
これを「政治的」と呼ぶかどうかはともかくとして、僕は人々が「国家」とか「国益」という「大きな物語」に回収されていく状況の中で映画監督ができるのは、その「大きな物語」(右であれ左であれ)に対峙し、その物語を相対化する多様な「小さな物語」を発信し続けることであり、それが結果的にその国の文化を豊かにするのだと考えて来たし、そのスタンスはこれからも変わらないだろうことはここに改めて宣言しておこうと思う。その態度をなんと呼ぶかはみなさんにお任せいたします。
(『祝意』に関して,2018年6月7日 )
これは非常に示唆に富んだ表現であるので、是枝監督の政治的(かどうかはわからない)スタンスの議論は置いておいて話を少しも戻したい。
目の前に起きていること全てが「小さな物語」だと思う。ただそれが100%日常である以上、見えない。
例えば、離島(に限らないが)での日常や、島民同士のコミュニケーションは「小さな物語」に違いない。また、島のために島民が一丸となって取り組む活動があるのであれば、その過程もまさに「小さな物語」である。
研究会の後輩がコンゴ民主共和国で蕎麦で農業を始める活動をしていた。プロジェクトの全体理念としては、異文化間を超えた「協働」を目指すというような、「協働」という言葉が何回も出てきて、昼夜問わず「協働」とは何かを議論しているような時がよくあったわけだが、「じゃあもう一旦抽象的な話やめて、どんな時に『協働』感じた?」と聞かれたときに、「エトム(手伝ってくれたコンゴ民主共和国の若者)と一緒に蕎麦の芽が出たのをみて、抱き合って喜んだとき」と答えた。この瞬間にまさしく「小さな物語」性を感じる。
冨永が所属していたゼミはそこで暮らすので非接触的な観察でない限り「小さな物語」を構成する一員となる。一度フィールドに飛び込めば、目の前にある暮らしと対話こそ世界であり、言ってしまえば、それ以上に「大きな」物語はないのだ。
一方で、そういう属人的な出来事を単なる「いい話」で終わらせたくない。その一つ一つの物語こそ、現実であり、実際であり、社会の構成要素であるはずが、「それはいったんおいておいて」進んでいくことの多さは、就職してから何度も経験している。そう思っているころ「感動」が原動力、と言っている人がいたことや紅白歌合戦の1曲1曲の重みがやけに響いた気もする。制度設計の過程で、「小さな物語」という個別具体の事情が型にはめられ、最もフェアな、食べログ3.56ぐらいの味と値段設定になった瞬間、なぜこうも「感動」が削ぎ落とされた状態になるのか。削ぎ落とされた「感動」こそ「大きな物語」の最大の燃料となるんじゃないのか。
「大きな物語」を考える人にとって、「小さな物語」の登場人物の暮らしや考え、生きていく上でのスタンスはなかなか想像がつかないし、逆も然りという意味でお互いにinvisibleな存在かもしれない。ただ、「大きな物語」側が「小さな物語」側に作用する力がものすごく強いし、強く見えるという精神構造もある。加えて出発地点は同じだった各個人が、進学し就職していく過程で知らない間に「大きな物語」側に属していることもあっておかしくない。そういう人が、実はマイノリティであるとも知らず、「一般的」と勘違いして、当事者意識をもたないまま影響力を持って活動を続けている気もする。
両側の差異を「役割分担」として片付ける人がいるが、それももはや時代遅れの捉え方な気がしている。
役割分担論について、互いに肩書きを捨て役割を十二分に達成することで、二項対立を脱するべく行動し続けた1人が宮本常一氏だったのではないか、と仮説を持っている。明治40年に生まれ、戦前と戦後を知りながら築き上げた彼の思想は、先見の明などと大それたものではなく、ただひたすらに行動力と実践力、そして人間関係の積み重ねであったと思う。
1956年3月に発刊された機関紙「しま」九号に下記の寄稿がある。
離島振興法はたしかに光明を与えた。しかし実質的に法は諸君たちの生活に大した援助をしていない。(中略)「他のものはいらない。これ一つだけは是非」というような切実さがあって初めて要求はかなえられてゆく。それに諸君たちの島の生産や文化がその方向に向って動いて行きつつあらねばならぬ。その時、法は生きて来るのである。希望が現実になってゆくのである。
法ができたから島がよくなるのではない。島がよくなろうとする時、法が生きるのである。このことを忘れてはいけない。(中略)
われわれは卑屈であってはならぬ。理想に向って胸をはって着実に歩いてゆこう。
(全国離島振興協議会 他『宮本常一離島論集別巻』,2013,みずのわ出版)
法に魂を吹き込む一言である。現場と非現場の隔絶を一挙に取っ払う勢いである。
その魂は法には元来宿っているものではなく、その対象となる当事者、現場にいる人々の日々の営みの新陳代謝が生み出すものであり、すなわち「小さな物語」が「大きな物語」を物語たらしめていることを表しているとも言える。
しかし、俄然、「大きな物語」は「大きな物語」によってのみ構成されようとする作用が働き続ける。
「大きな物語」を生きる世界に、どのようにして「小さな物語」を持ち込めるだろうか。
おそらく、そのためには、誰かが「小さな物語」を「持ってくる」のではなく、誰かが「小さな物語」そのものとして「やってくる」、というか「飛び込んでくる」必要があると考えている。それに際して、「大学生」がこの両物語の間に革命を起こす。
今、大学時代に鹿児島県の口永良部島での活動を共にし、それぞれ半年〜1年間現地に滞在した同志と、自分たちの「小さな物語」を切り口にして「大きな物語」を描く書籍を出版できないかと、話を進めている。
僕らが伝えられることの一つに、以下3点あると思っている。
①「小さな物語」の存在を知ること
②自分が「小さな物語」の主人公になること
③「小さな物語」を通じて「大きな物語」を描くあるいは動かすこと
(④そして「小さな物語」に帰ること)
戦いを挑んでいる。
「大きな物語」は今、「大きな物語」を通じて構成されている。そこで熱く熱く語られるほど「小さな物語」は存在しなくなってしまいそうである。だが、「小さな物語」を通じて「大きな物語」を解釈できる人材が今、少なからずいる。そしてそれが「大学生」であったとき、どれだけの価値があることか。そしてその価値を産み続けるために「大学」とはどうあるべきなのか。
これを大学が学生に要請するわけでもなく、地域が学生に要請するわけでもなく。当時学生として、現場と関わってきた私たちが、その時に実感した価値をそのまま、自分たちで発信しているからこそ、100%中身だけで勝負できると思っている。その中身についてはまたいつか!