2024年9月から霞が関の派遣制度で、英国のオックスフォード大学のブラヴァトニク公共政策大学院(Blavatnik school of government, University of Oxford)に留学に家族4人できています。世界最高峰の研究機関に、周囲からの多大なサポートのおかげ、家族みんなで来ることができて、心から嬉しく思っています。そして、毎日一緒に生き抜いてくれている相方に心底感謝です。私のキャリアに限らず、家族みんなにとって、「この10年間、日本国内いっぱい経験したから、次は世界に挑戦してみたいよね」という合意のもとJALに乗りました。なので、この生活が現時点では「一生に一度」とは思っていませんが、もちろん一生に一度かもしれないと言う思いで毎日勢いよく過ごしていきたいと思っています。
留学、大学院進学への想い
高校生の頃から、「英語を喋らずに終わる人生のはずがない。絶対に海外留学はしたい」と思っていましたが、慶応SFCでの学生生活の全ての屋久島・口永良部島に捧げましたので、その点は先送りになっていました。
大学3年生の頃、大学を1年休学して、口永良部島に暮らすことを決意した時は、「この活動をこのまま研究者として続けたい」と言う気持ちでいましたが、帰ってくる頃にはいろんな事情から、かなり積極的に「早く就職して結婚したい」となっていました笑。したがって、大学院進学して、修士以上の勉強・研究に取り組むことも先送りになっていました。
絶対に総務省で働きたい、と決心してから、そこで地方/地域の仕事をしたいという思いと、留学に行く制度で海外に行きたいと言う気持ちはセットでした。総務省職員になることは、私のこれまでの人生が後押ししてくれた熱意、好奇心、ご縁、ご恩、先送り事項の全てを、素晴らしいバランスで叶えてくれる進路でした。かつては、池田さんの本を読んで、ハーバードのケネディスクールに行ってみたいな、とも思っていました。入賞直前のメモを見返すと”ブラヴァトニクスクール”とあったので、これも考えていたようです。
志望を英国/オックスフォードに決める
2年間のフリーター生活と、コンゴ渡航後に、やっと入省してから毎年、人事には留学に行きたいと言っていましたし、山口県庁時代の徳佐から車通勤の間は、積極的にNHK Worldを聞き流していました。(全く英語力は上がりませんでした)
ほんとはもう1年早く行けたらいいなと思っていましたが、ついに2022年度に、2024年度から留学に行けることが決まりました。私がお世話になっている霞が関の制度は、まず先に国を確定させて、その後「2年の時間と学費、生活費は出すから、自分で頑張って出願して受かったところに行ってね」という感じです。
国を決める段階にあっては、
- 人生でUSAは何度も行ったことがあるし、
- ほぼ未経験のヨーロッパで多様な文化や歴史に触れたい
- 何よりも、オックスフォードやケンブリッジ、ダラム大学の最大の特徴である「カレッジ制度」という、教員と学生が寝食を共にして、900年間発達させてきた学寮制度を体験してみたい
という気持ちから、オックスフォードを念頭に英国に決めました。
怒涛のIELTS受検 前期
まず留学の枠を勝ち取ることにもつながるし、できれば早めにIELTS(英国版のTOEFLみたいなやつ)卒業したいし、と言うことで、何度もIELTSを受けました。1回27000円ぐらいだったので、これを何度も受けようと思うのは、間違いなく会社の派遣で留学に行こうとする人の悪いところです。
あまりIELTSの成績は伸びず、そして到底オックスフォードの求める要件には届かないまま、時間が過ぎました。
出願と合格
先輩留学生の話をたくさん聞いて、英国の大学院の出願では、語学のスコアを後回しにして、先に内容で合格をもらって、入学直前の期限までに語学の条件をクリアして突破することが難なく可能とわかり、先に出願書類の準備に取り掛かりました。といっても、夏休みの宿題を9月に始めるごとく、かなりギリギリでした。
出願書類は下記の通り準備しました。留学コンサルは使わずに自分で準備して、先輩に添削してもらって、ネイティブチェックをオンラインで委託した人にやってもらいました。
出願書類の内容(Oxfordの場合)
① Personal Statement(志望動機書, 800words)
② CV(履歴書, 2ページ)
③ Reference(推薦状, Professional2枚、Academic1枚)
④ Essay 1(政策提⾔, 1500words)
⑤ Essay 2(公共サービスへのこれまでと今後のコミットを⽰すエッセイ, 400words)
⑥ 語学スコア(⼊学時点において有効期限内のもの)
※ 英国の多くの⼤学では、⑥以外を出せば条件付き合格⼜は不合格が出る
1月頭の締切の日にギリギリ提出しました。そこから、(本来もっと早くやるべきですが)他の大学の書類も2月までに出しました。子連れですが、組織からの家族へのバックアップは何もないので、ロンドンでの生活は厳しいだろうと言うことと、強く興味のある大学院もなかったので、オックスフォード以外には、サセックス大学、ブリストル大学、エジンバラ大学のそれぞれ地方の大学の公共政策のコースに出願しました。
出願準備は、非常に重い腰を動かす作業でしたが、出して受かるかどうかはわからないけど、出さないと絶対受からない、という当たり前なロジックを念頭にどうにか出しました。やってみれば非常に楽しい作業でした。個人として作る志望動機書や経歴は、久しぶりに業務から離れた真に「個人的」かつ「自分の言葉」で、やればやるほど「書けることがいっぱいある!」と感じました。これまでの人生の総決算、集大成を詰め込む時間でした。そして、リアクションが、オックスフォード大学からメールで「Congratulations!」の文頭とともに現れたときは、ちょうど係で飲み会が終わろうとするタイミングでしたが、嬉しくて叫びました。
家探し、保育園探し
一番行きたいところに受かったので、全力で語学スコアをクリアしなきゃいけない生活に戻りました。しかし、それに加えて、留学生の典型的な苦労の1つである家や寮探しと、さらに娘の保育園探しを、オックスフォードと他の3つの地方と同時並行で進める必要がありました(この時期はこれと同時に、第2子の出産と業務があったので、なかなかタフでした)。さらに、家が決まらないと近い保育園も決まらないので、もし仮に量がここになったら保育園の優先順位はこれで、、×寮2ヶ所×4地方、と言う感じで、数学が連立方程式までが限界だった私にとっては、もうムズムズしてすぐトイレに行きたくなっちゃう作業でした。行ったこともない地域のGoogle Mapを擦り切れるほどみながらポイントを保存して、全力でベストな選択肢を追求した結果、努力が報われて、5月ごろには、オックスフォードに行く場合の寮も保育園も確定しました。あとは、僕の英語のスコアだけ、、と言う一族からのプレッシャーがさらにエキサイティングでしたし、結局そこがクリアしないと、ビザ申請ができず、厳格化された新しいビザ審査を突破するための猶予の日数が僕の英語の能力によって少なくなっていく日々に、もう現実逃避のためにTikTokをめくる指が止まりませんでした。
怒涛のIELTS受検 後期
最終的に期限を交渉して、6月中旬に受けたIELTSでスコアが上がって、入学を許可されました(コースは9月末から)。結局人一倍時間がかかっているので、私の対策方法を参考にすべきかわかりませんが、
Reading: TimesやNYTのメルマガを購読して読む
Writing: 基本の構成を学んだ上で、高得点に繋がりそうで、どんなテーマにも使える難単語やイディオムを30個ほど暗記して全力で盛り込む
Listening: BBC Learning Englishの6 minutes EnglishというPodcastをディクテートできるぐらいやる
Speaking: Part2のスピーチで聞かれそうなテーマをChatGPTと相談しながら事前に原稿を作って、覚える(その過程で、かなり実際にSpeaking能力が上がる)
という感じでの対策が最終的には有効だったと思います。ちなみに、結果としてオックスフォードの要件を満たすほどのスコアがあったとしても、日頃英語圏と接点がない日本人にとって、こちらの授業やディスカッションについていくのには、心底心底本当に苦労しますので、英語の勉強はとことんやった方がいいと思いました。特に聞く・話す。
ビザ申請
晴れて(というわけではありませんでした、語学のクリアに時間がかかり過ぎて、家族一同やや疲弊して、オクスフォードに行ける喜びよりも、「やっと終わった、、」という疲弊の方がやや優っていた?笑)、無条件合格となり、ビザ申請に必要な情報が揃うと、急いで申請しました。オンラインで大量の一問一答入力作業を家族4人分やるのはすごく大変でしたし、お金もかかって負担感がすごかったです。そして、生体情報を登録しに、汐留の施設に行ったときに、申請上不安な点を相談したら、案の定、申請やり直しだということがわかり、「死ぬ気で急いで再申請してくるから、予約してないけど今日もう一回来させて」とお願いして、どうにかその日中に申請を終えました。かなりナーバスでしたが、その後すぐに、審査通過の連絡が来ました。これで本当にみんなで英国に行ける!!という非常に気持ちの良い瞬間でした。
引越し
オックスフォードの年度開始直前に、娘の保育園の運動会があることがわかったので、大好きだった保育園ということで、最後に運動会で締めくくって、そのあとすぐに出国することにしました。
まず賃貸の部屋を引き渡すデッドラインを決めて、そこに向けて、全力で断捨離、相方の実家に送るもの、私の実家に送るもの、英国に私たちが持っていくもの、数日遅れて渡英する相方の両親に持ってきてもらうもの、に区分けして保管していくようなスペースはどこにもないし、全部娘がまとめたものから掘り返していくので、気合いと勢いだけで進める引越し作業でした。最終的に実家の多大なサポートと、ラスト1週間は私の実家にみんなで暮らしながら、電車か車で1時間かけて保育園まで送迎する暮らしでした。それでも体調も崩さず、楽しみきった我が子に乾杯です。
飛行機は座席のある大人2名と娘2歳が1名の3人分の受託手荷物が6個+膝の上の息子(当時5ヶ月)の分で1個、そして、機内持ち込み手荷物が「身の回りの品に加えて1個まで」という定義をポジティブに解釈し、さらにカウント外のベビーカーと車のチャイルドシートも預けて、全部で14個ぐらい?の荷物を、羽田空港と実家を当日2往復して搬入しました。カート3台分にリュックやショルダーバッグを装備し、その上でどうにかして子2人を運ぶ状態。そして関係者全員が「これヒースロー空港ついたらどうやって運ぶの?」という顔をしていましたが、それは私たちが一番気になっていました。※船便も検討しましたが、3ヶ月かかると言われて、逆にそれまで不要なものって永遠に不要、と思ってやめました。
渡英
JALの深夜便・直行便でした。事前にいろんな子連れ海外旅行Web記事を見て勉強して、できるだけ日中は日常生活通りに、そして、親が体力を消耗しないように割とギリギリに空港に行く、という戦法で向かいました。
事前に相方がリサーチしていた、座席がフラットになるやつを(結構高いですが)入手しておきました。これは正解でした。
00:20発予定の飛行機に乗るまで、遅延があったりなかなかタフでしたが、飛行機に乗ってからは、上の子の睡眠と、下の子を授乳し続けたパートナーに感謝です。飛行機の画面で、初めてトイストーリーを見た娘が冒頭シーンのウッディが1人で動き始めるシーンに発狂した時は大変でした。
着陸後、全くスムーズではありませんでしたが、無理矢理その場にいるJALのスタッフにカートを押す手伝いをさせて、どうにか事前に予約した大きいタクシーに荷物を詰め込み、オックスフォードに向かいました。
寮に到着し、大量の超重量級の荷物が建物の下に下ろされ、ダッシュで鍵を受け取り、部屋に入り、すごく広くて一安心。荷物を5往復ぐらいして、部屋に搬入し、見事渡英を果たしたのでした。事前に友人が残していってくれた生活用品も無事確保でき、さらにその友人のコンサル通りにセットアップのための買い物に出かけ、時差もあり、気を失いそうになりながら1日を終えました。
家は、Port Medowという有名な広い公園の近くで、もちろん東京よりははるかに自然豊かな、とても穏やかなところで、非常に救われました。
かくして、私たちの英国生活は始まったのでありました~。